760年遣興 杜甫 <251>遣興22首の⑳番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1202 杜甫特集700- 365


760年とはどんな年であったのか?
760年 上元元年 ・ 7月李輔国ら、玄宗を長安に遷す。・長安で大雨のために飢饉となり、叛乱軍への有効な反撃ができず。 

≪杜甫≫・760 49歳 成都にあり。春、西郭の浣花里に居を卜し、春末、落成す。秋末、蜀州に至り、高適と語る。冬、また成都にあり。  
≪李白≫・760 李白60歳 長江上流と下流の各地に遊ぶ。
≪王維≫ ・760 王維62歳 給事中から尚書右丞(正四品上)に昇進 ・飢饉に際して、王維は天子の許しを得て自分の禄米のほとんどを窮民に施す。


『遣興』という題ではこれ以降無い最終のもの、ただし、同年、同じ成都草堂で、内容もよく似た『遣意二首』があり、『遣興』シリーズと比較してどう違うのか、なぜ遣興は終了したのかが読み取れる。

遣興
干戈猶未定,弟妹各何之!
安史の乱は史思明が依然として洛陽を占拠しており、自分がいた秦州には異民族に侵略されたり、戦がいまだに平定していない。弟や妹はそれぞれどこでなにをしているのだろうか。
拭淚沾襟血,梳頭滿面絲。
同谷紀行、成都紀行で艱難辛苦で、涙をぬぐい、襟もとを濡らすのは血の涙を流したのである、頭をくしでとかせば白髪がぬけおちて顔中にふりかかるほどなのだ。
地卑荒野大,天遠暮江遲。
家の外をながめると、地面は湿地帯のようでく平らで荒れた野はらが大きく横たわっている、天ははるか遠くつらなって夕ぐれの江はゆるくながれている。
衰疾那能久,應無見汝期。

老いてきて持病がある身ではとてもこの世に長く生きていることはできるとは思はない、きみたち(弟妹をさす)にこれからもう面会する時期はとても無いとおもう。

(興を遣る)
干戈猶未だ定まらず 弟妹各~何に之く
涙を拭えば襟を零す血なり 頭を梳れば満面の糸
地卑くして荒野大に 天遠くして暮江遅し
衰疾那ぞ能く久しからん 応に汝を見る期無かるべし



現代語訳と訳註
(本文) 遣興

干戈猶未定,弟妹各何之!
拭淚沾襟血,梳頭滿面絲。
地卑荒野大,天遠暮江遲。
衰疾那能久,應無見汝期。


(下し文) (興を遣る)
干戈猶未だ定まらず 弟妹各~何に之く
涙を拭えば襟を零す血なり 頭を梳れば満面の糸
地卑くして荒野大に 天遠くして暮江遅し
衰疾那ぞ能く久しからん 応に汝を見る期無かるべし


(現代語訳)
安史の乱は史思明が依然として洛陽を占拠しており、自分がいた秦州には異民族に侵略されたり、戦がいまだに平定していない。弟や妹はそれぞれどこでなにをしているのだろうか。
同谷紀行、成都紀行で艱難辛苦で、涙をぬぐい、襟もとを濡らすのは血の涙を流したのである、頭をくしでとかせば白髪がぬけおちて顔中にふりかかるほどなのだ。
家の外をながめると、地面は湿地帯のようでく平らで荒れた野はらが大きく横たわっている、天ははるか遠くつらなって夕ぐれの江はゆるくながれている。
老いてきて持病がある身ではとてもこの世に長く生きていることはできるとは思はない、きみたち(弟妹をさす)にこれからもう面会する時期はとても無いとおもう。


(訳注) 遣興
干戈猶未定,弟妹各何之!
安史の乱は史思明が依然として洛陽を占拠しており、自分がいた秦州には異民族に侵略されたり、戦がいまだに平定していない。弟や妹はそれぞれどこでなにをしているのだろうか。
・干戈猶未定 上元元年は粛宗の治世で使用された元号。760年閏4月~ 761年9月。依然として、史思明軍が洛陽を占領している。翌761年史思明が息子史朝義に殺害され、2年後安史の乱は平定するが、弱体化した唐王朝に隣国「吐蕃」が再三攻め入る。杜甫は依然戦争パニックに陥っている。
弟妹各何之 弟たちは、洛陽より東にいるため、長安にいた時でも連絡は取れにくかった。まして、杜甫はひと山脈越えた秦州(天水)に、さらにひと山越えた同谷へ、そうして成都紀行で、さらにさらに急峻難所を経て成都にたどり着き、知人の助けを借りて草堂を立てたばかりの所だ。弟たちからの連絡は届かなくても不思議ではない。成都郊外、浣花渓の畔、隠棲にはうってつけの場所である。杜甫にとってはこの20年の間、はじめて自己所有の家に、家族と過ごせるものであった。


拭淚沾襟血,梳頭滿面絲。
同谷紀行、成都紀行で艱難辛苦で、涙をぬぐい、襟もとを濡らすのは血の涙を流したのである、頭をくしでとかせば白髪がぬけおちて顔中にふりかかるほどなのだ。
拭淚 なみだをぬぐう。「官を辞して」杜甫は秦州で落ち着きたかったのであるが、わずか数カ月で移動しなければいけなかった状況は杜甫にとって、血のにじむ辛いことであった。ここ浣花渓草堂で、追い詰められたものの歎き、怨み、望郷の思いでいっぱいの毎日から脱却できたのか。


地卑荒野大,天遠暮江遲。
家の外をながめると、地面は湿地帯のようで、平らで荒れた野はらが大きく横たわっている、天ははるか遠くつらなって夕ぐれの江はゆるくながれている。
地卑 上元元年(七六〇)の春早々、城西七里の浣花渓のそばに空地を得て、さしあたり一畝の地をきり開いて、茅ぶきの家(草堂)を設けた。杜甫は詩を作って、多くの人々に樹木の苗を求めた。蕭実には桃の苗百本、韋続には綿竹県の竹を、何邕には三年で大木になるという榿木の苗を、韋班には松の木の苗を、石筍街果園坊の主人徐卿には、すももでも、うめでもいいからといって、果樹の苗を、そして韋班には更に犬邑県産の白い磁碗をたのんでいる。やっとこの地に落ちつけると思った作者の心のはずみが感ぜられる。
 草堂は暮春にはもういちおう出来上がった。それは成都の城郭を背にし、錦江にかかる万里橋の西、浣花渓のほとりにあった。ここからはとおく西北に当たって、雪をいただく西嶺も眺められた。


衰疾那能久,應無見汝期。
老いてきて持病がある身ではとてもこの世に長く生きていることはできるとは思はない、きみたち(弟妹をさす)にこれからもう面会する時期はとても無いとおもう。
尾聯で、年を取ったこと、病気のこと、述べてから、希望・目標を否定的に述べるのは、希望目標を強調すためで杜甫は公式ともいえる「遣・・・・」「感・・・・」「〇・・・・」と題したものにおおく使っている。


<遣興について>
長安にあって驥子をおもって作ったものである。製作時、至徳二載。757年46歳 この時遣興のシリーズの先頭である。これが20首も続くとは思っていなかったのである。758年 乾元元年罷諌官後作 ②房琯擁護の後、疎外感を持って勤務したころ「我今日夜憂,諸弟各異方。」ではじまり、③「客子念故宅,三年門巷空。」旅人であれば故郷の家を思うものである。もう三年、私の家の門や門前の小道に家族が集うことはなく、むなしく淋しいものである。④「丈夫貴壯健,慘戚非朱顏。」家族みんなが元気でなければいけないと①~④まで自分の思いを分散している家族に「派遣」するのである。
⑤~⑦については「官を辞して」秦州に来た旨を知らせる内容で、続いて⑧~⑫は杜甫が詩人として生きていくことを決意したこと、過去の詩人たちと隠棲を述べながら家族に知らせるものである。⑬~⑭は杜甫が今まで胸に抑えてきたものをこれから堂々と詩に詠っていくことの決意を示している。⑮~⑲は「官を辞し」た自分は富貴者、官僚に対して決して媚は売らないというものである。こうして、⑳で艱難辛苦の上、成都草堂に来たのだが早く会いたいものだ、と述べている。